昔の人は面白い -最強の武士って誰?-
古今東西、人の話というものは
昔から二種類に分けられると言われています。
1つは噂話でございます。
「○○さんのところの旦那さん病気になったらしいわよ」
「明日、○○で安売りセールがあるらしいわ」
などと言った妄想(不確実な話)や未来のことでございます。
そしてもう1つ。それは歴史の話でございます。
昨日のことから大昔のことまで、実際に体験したことや人から聞いこと等々、
全てのものには歴史があり、その内容は非常に多岐に渡ります。
本日お話しさせていただきますものは、
そう、この土地、伊豆稲取の話でございます。
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ということでこんにちは。ナオヒロです。
最近、日本の文化を見直そうということで落語を聞き始めたんですが
おもしろいですね!落語って!
最近のお気に入りは三遊亭圓生さんの死神というお話です。
40分弱あるお話なんですが、あっという間に聞き終わってしまいました。
圓生さんに影響されてしまい、
思わず落語のような切り口で書き出してしまった今回の記事ですが、
(にわかが書いた文なのでおそらく似ても似つきませんがお許しください。。。)
皆さんは、一番強い武士といえばだれを思い浮かべますか?
戦国時代を彩った様々な武士を思い描いた方が多いと思います。
しかし、実はそれよりももっと前に最強と呼ばれる武士がいたそうなんです。
しかもその武士は私の住む伊豆稲取と縁が深いのだとかなんとか。
今回はNHKが平安のガンダムと呼んだ超人について調べてみましたので
最後までお付き合いいただければと思います。
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さかのぼるとこ約900年——
1156年に大きな争いが起きました。
これは元々兄弟であった崇徳上皇と後白河天皇の間に起きた壮大な兄弟げんかと言われています。
ある日突然、何もしていない崇徳上皇と藤原頼長(よりなが)は反乱を怪しまれてしまいます。
このままでは命が危ないと思った2人は城から逃走。
何人かの武士にサポートしてもらったところ、
攻めるために力を蓄えているとさらに勘違いされ争いが起きてしまいました。
そんな保元の乱ですが、当時名が高かった“源氏”と“平家”が関わったことで
一気に大きな争いへと変化してしまいます。
しかし、そんな2人を差し置いて
平安時代最強と呼ばれた一人の戦士も参加していたのです。
そう、それこそが
源為朝です!
ん?だれ??
となった方も多いと思いますので簡単に紹介しようと思います。
源為朝(ためとも)はどんな人だったのかというと、
- 源頼朝の叔父
- 身長2m越え
- 5人がかりでようやく引ける剛弓の使い手
- 生まれつき乱暴者で父の為義もあきれ果て、13歳で九州に追放された
- が、手下を集めて暴れまわり、鎮西八郎”と名乗り一帯を制覇
- 保元の乱で敗走し、伊豆大島に流罪
- が、伊豆大島の国司には従わず、大暴れし伊豆諸島を全て支配。
- 歴史家からは平安版の呂布と呼ばれている
はい、そうです 化け物 です。
調べれば調べるほどほんまに凄い人です。
当時(平安時代末期)の男性の平均身長は157cmでした。
当時の武士のなかでもかなり大きかったことがわかりますね。
撮影現場では“平安のガンダム”と呼ばれていたそうです 笑
そんな為朝さんですが噂は他にもたくさんあります。
- 伊豆大島にいる為朝1人を討伐するために船20艘兵500余騎も用意。
- それなのに為朝を恐れて大島に上陸できなかった。
- 死ぬ前に放った1本の矢で300人乗せた船が沈没。
- 江戸時代、為朝此処に在りという看板を立てれば疫病が流行らない。
- 大島から放った矢が鎌倉の海岸まで飛んだ。(その距離64.4km)
などなど、どれも人間とは思えへんもんばっかりですね。
調べながらつい笑ってしまいました 笑
そんな為朝さんですが、内面はとても優しい人でした。
保元の乱で敗走したあと、為朝さんは佐賀県に身を潜めていました。
佐賀県には黒髪山に七本角の大蛇がいるという伝説があり、
地元の人に恐れられていたんですが、為朝はこれをあっさり退治。
流石、平安のガンダム。
角が何本あろうと関係なさそうですね。
討伐の証拠として、大蛇の鱗を三枚剥がして牛に運ばせたそうなんです。
しかし、伝説の大蛇となると鱗3枚だけでもとても重い。
あまりの重さに運んでいた牛は道中で亡くなってしまいます。
そんな牛を哀れんだ為朝は、牛を手厚く葬ってあげました。
その葬った場所が現在の「牛津」という土地なんだとか。
本当かどうかはわかりませんが、意外と動物想いで優しい人やったんですね。
このような噂が残っているということは話の審議を問わず心が優しい方だったのだと思います。
また、伊豆大島に攻め入られた際も罪のない島民に迷惑をかけたくないと、
部下にも知り合いにも形見分けして逃がしていたそうです。
その後、自ら腹を切って、32歳で生涯を終えたとのこと。
当時、島に住んでいた方からしても大変男らしい最期を迎えたとのことです。
伝説のような話が多い為朝さんでしたが、散り方もかっこいい方でしたね。
そして、前置きが大変長くなってしまいましたが、
そんな剛勇無双でスーパーヒーローだった為朝さんが大島で亡くなった後、
なんと子孫である富岡主水さんが36人の家来と一緒に移住してきたのが
ここ伊豆稲取なんです。
(ようやく冒頭に繋がりました笑)
実は伊豆稲取には為朝通りと呼ばれる道があるのですが、
これが出来たのは彼らの影響が大きかったそうなんです。
また、稲取には現在でも富岡の姓を持つ人が多く住んでいます。
いつか機会があれば為朝さんの子孫の方にもあって話を聞いてみたいな。
なんて、思った方は是非とも稲取へ足をお運びください。
もしかしたら会えるかもしれません。
いやーまさか、この土地に日本最強ともいわれる武士との所縁があったとは…
やはり、歴史というものは面白いですね。
皆さんも自分の故郷や、今住んでいる土地について調べてみてはいかがですか。
昔の人は少し誇張して伝記する傾向があるので結構面白いかもしれませんよ!
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いやー、久しぶりに記事を書くと口調が定まらなくなってしまいますね。
ついつい、あちらこちらで関西弁を出てしまいました。
あー読み返すとえらい乱れた記事になっていますね。
これぞ、まさに方言(保元)の乱。
はい、お後がよろしいようで
最後までお読みいただきありがとうございます。
参考サイト一覧
https://bushoojapan.com/jphistory/genpei/2020/03/06/95592
https://www.yubanamankai.jp/archives/16217
https://harunosuke-nihonshi.blog.ss-blog.jp/2019-01-12
https://ameblo.jp/quizas/entry-11244139028.html